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回顧録5 日本経営者同友会 創始者・石原慎太郎氏

日本経営者同友会は、そもそも石原慎太郎氏が作った経済団体だった。それを35年前、私が石原氏から依頼を受けて継承することになった。
 都知事選の時に私は、石原氏を応援するため徳洲会会長だった徳田虎雄氏を紹介したことがあった。石原氏はそれに恩義を感じたのか、次の参議院選挙に徳田氏が自由連合から立候補した際、私が依頼した応援を受けてくれて、東京から鹿児島まで駆けつけてくれたことがある。 
 息子の伸晃氏が自民党の衆議院議員だったにもかかわらずだ。石原氏は、そういった義理堅い一面がある。
 ただ石原氏を連れて鹿児島に着いた時、冷や汗を流した覚えがある。石原氏からは応援演説はするけれど、それを表だって宣伝はしないで欲しいと頼まれていたからだ。だから、事務局には立て看板やポスターには石原氏の名前は入れないように頼んでおいた。それが空港から会場までの沿線に、ずらりと「石原氏来る!」の立て看板が林立している。
 それで、立て看板があるたびに、「あれが桜島」とか反対の方向に顔を向けるようにして、石原氏の注意をそらそうとした。
 石原氏は、素直にそっちの方に顔を向けてくれ、見て見ぬふりをしてくれた。そうしたことが何度もあって、こちらはハラハラしどうしだった。たが、最後は石原氏が私を憐れんでくれたのか「下ちゃん。もういいよ。俺は分かっているから」とだけ言って、私を責めることは一切しなかった。
 それが石原氏の男気なのだろうが、私とすれば、ますます申し訳ない気持ちにさせられたことを覚えている。

 <<最後の花道>>
 その後、徳田氏から自由連合党首として石原慎太郎氏に就任してくれるよう要請があり、私も尽力したが、徳田氏側の諸事情により流れた経緯がある。
 石原氏は、日本維新の会共同代表として1昨年3月12日の衆院予算委員会で、18年ぶりの国政復帰後、初の国会質問を行った。石原氏は質問もそこそこに持ち前の持論を展開、さながら予算委は石原節の独演会となった。
 石原氏はまず「浦島太郎のように18年ぶりに国会に戻ってきた。暴走老人の石原だ。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選した。『老婆の休日』だそうで、大変残念だ。これからの質問は言ってみれば、国民の皆さんへの遺言のつもりだ」と述べ、持論を披露した。
 まず石原氏は「国民の多くは残念ながら我欲に走っている。政治家はポピュリズムに走っている。こういうありさまを外国が眺めて軽蔑し、日本そのものが侮蔑の対象になっている。好きなことを言われている。なかんずく、北朝鮮には200人近い人が拉致されて、中には殺されて、取り戻すこともできない」
 「かつて名宰相だった吉田茂の側近中の側近だった白洲次郎さんが面白いことを言った。『吉田さんは立派だったが1つ大きな勘違いをした。サンフランシスコ(平和)条約が締結されたときに、なぜあの憲法を廃棄しなかったのか』と。麻生さんは安倍さんと一緒にこの問題を考えてほしい」
 「吉本隆明の言葉ではないが、『絶対平和』という一種の共同幻想で日本を駄目にした。首相はそれを考えて、憲法をできるだけ早期に大幅に変えて、日本人のものにしてほしい」
 石原氏は、率直に国家の屋台骨である憲法問題に言及したが、私にはそれが最後の花道だったような気がしてならない。

 <<悔やまれる自民党復帰>>
 石原氏は、都知事に3期当選した実績がある。
 振り返ると、二期目が石原氏のピークだった。その時、新銀行の問題が起きている。それを石原氏のカリスマ性で乗り越えてきたけれども、そういうものにエネルギーを費やした。実にもったいない話だ。
 何度も進言したように石原氏は、本当はダメ元で自民党に復帰すべきだった。
 政治には時に奇手奇策が必要だ。並の手段では百年河清を俟(ま)つに等しい。本来、石原氏にとっては、自民党は懐かしい古巣だ。息子の伸晃氏が自民党の幹事長だったあの時は、まだ可能性はあった。長老が全員反対してもねじ伏せて、若手議員の熱で総裁への道筋をつけるというものだ。そうした根回しができた。
 何より問題の本質と20年、30年先を見る、そういう形でないと石原氏のカリスマは生きてこない。それを見誤った。石原氏の自民復帰など、はじめから無理だと断念したからだ。

 <<そびえ立つ哲人政治家だが>>

 ただ、石原氏としても「身から出たサビ」と反省しないといけないところもある。
 何より当時、若手にしても自民党の中から、呼び水となる「石原コール」が一度も起きていない。
 石原氏は腹はあるし、心から共感できる国家観などそびえ立つ哲人政治家としての偉人ぶりは立派だ。
 政治家にとって言葉というのは命に等しいものだけれど、国民は言葉だけで踊るものではない。また、単刀直入型の歯に衣着せぬ言葉というのは、敵を作りやすく、誤解を生みやすくもある。
 国家のためにどれだけ汗をかいたのか、公の利益のために自腹さえいとわず金を出したのか、そうしたボスとしての資質がなければ一政党のトップに立っても、国民は一票を投じるのをためらうのが常だ。
 それにしても悔やまれるのは、石原氏をサポートし次のステップにつなげる役どころを果たす側近に恵まれなかったことだ。
 都知事選程度なら、選挙活動をろくすっぽせず当選した青島幸男がいたように、人気票だけで都知事の椅子を獲得することも可能だ。だが、さすがに首相となると組織戦だ。裸の王様では到底、首相の椅子を射止めることはかなわない。
 たださりながら、石原氏の大局観と歴史観の基づく一騎当千の政治家としての力量を発揮できる場がなかったことは惜しまれる。

回顧録1:ヤオハン破綻で迎えた転機回顧録2:ヤオハン、転落の坂道回顧録3:お袋と交わした最後の言葉 母の死
回顧録4:身を助けた祖母の言葉回顧録5:日本経営者同友会 創始者・石原慎太郎氏