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回顧録3 お袋と交わした最後の言葉 母の死

父親は戦時中、外地で死亡した。本当のところ、詳細は分かっていない。当時はそういった不明のまま、死亡扱いになった人は一杯いた。
 宮古島の人たちの多くは戦争中、台湾に疎開していた。
 戦後、お袋は疎開先の台湾を引き上げ、宮古に帰って来た。けれども宮古島では仕事がなかった。それで沖縄本島まで行き、米軍で職を得た。私も一緒だった。小学校2年生の時のことだ。
 沖縄では米軍基地のそばに一年ぐらい暮らした。そのころ、売春宿を覗きに行こうと先輩がいうものだから、出かけたことがある。さっそく現場を覗き見しようと、2人で狭いところに入っていって、石に乗って見ようとした。
 なんとか中が覗けた。ガラス戸があるのだが、ガラスは透明だから支障はない。
 だが、つま先立ちして背伸びして見ていたら、そのうち、石がころんと転んだ。
 人の気配を聞きつけて飛び出してきたのは、黒人米兵だった。黒人は「ヘイ」と言って、バンドを締めながら入口に出てきた。
 直ちに逃げようとした。ただ体を斜めにしないと動けないほど狭いから、すぐダッシュできる体勢にはない。それで、まず先輩の方があっけなく捕まってしまった。振り返るといない。
 先輩を置いたまま逃げるわけにはいかないから、しょぼしょぼ戻ると黒人からしこたまゲンゴツで殴られた。私は二回殴られ、顔はお岩さんのように腫れ上がり目も出血した。ただ、相手が大人で、しかもこちらに非があったとしても、やられっぱなしでは気分が悪い。
 誰にも言わないまま、2人で仕返しのための復讐戦を企らんだ。翌日から1週間ぐらい、売春宿や飲み屋をはじめ、手当たり次第、片っ端から探し回った。だが、とうとう見つからなかった。
 まあ、見つからなくてよかった。どう意気がっても、所詮、向こうは軍で鍛え上げた黒人兵だ。返り討ちでサウンドバッグにされるのは目に見えていた。
 沖縄では空薬きょうが高く売れた。小遣い稼ぎに、空薬きょうを拾いに射撃訓練演習場に出かけたことがある。
 まずペンチ片手に金網を破って入る。
 すると、上空でシューシューと弾が飛んでくる。その手前で拾う。不発弾もあるから極めてリスキーな仕事だ。
 それをもって業者に買い取ってもらうと、一日で5ドルとか10ドルとか手に入る。業者は、それをペンダントにしたりしていた。当時、沖縄で働く邦人ワーカーの平均的な給料が10ドルだったから、結構いい稼ぎになった。でも、やったのは二回だけだった。
 多くの国では、平時の演習などで使われた空薬きょうの回収を兵士に求め、特に資源に乏しかった日本軍では厳密な回収が求められたものだ。だが、豊富な資源と高い生産力を誇る米軍は、演習で空薬きょうの回収をほとんど行うことはなかった。
 それで戦後しばらく、米軍演習場周辺の空薬きょう拾いで生計を立てる人が生まれることになったのだ。
 だが実際、砂浜みたいな現場に赴くと、足が立ちすくむような怖さを感じた。こんな恐ろしいところとは思わなかったが、それでも戦場のような場所で働く大人や子供が何人かいた。
 かごを腰につけて、拾った空薬きょうをポイポイ放り込む。その目方次第で一日の稼ぎが決まる至ってシンプルな作業だ。朝鮮戦争があったせいで、あのころはしょっちゅう、演習があった。だからリスクさえ冒せば、子供でもそれなりのキャッシュを手に入れることができた。1950年ごろの話だ。
 お袋は住み込みの仕事をしていたから、帰ってくるのは週に一回ぐらいだった。私は叔母の家に預けられていた。
 叔母の家はクリーニングを|生業《なりわい》とする家だった。その叔母の家には小学校3、4年までいた。ただお袋は、私が5年の時に、住み込みの米軍勤務を辞め、昔の経験を活かそうということで、産婦人科の助産婦になった。
 だが、一緒に暮らせると喜んだのも束の間だった。お袋はそういう時に、病気になり闘病生活を強いられた。
 お袋の病気は一向に良くならず、悪化するばかりだったから、療養のため宮古島に帰ってきた。そして、私が小学校5年の時、ついに息を引き取った。
 学校に行って授業中だったが、先生から「すぐ家に帰れ」と言われた。嫌な胸騒ぎを覚えながら、走って帰った。病床に伏すお袋は、ほぼ虫の息だった。
 それでも私が帰ってきたことを目で追うと、お袋は布団の中から手を出して私の手に触れた。温もりのある柔らかい手だった。そして、ただ一言「ごめんね」と言った。それがお袋と交わした最後の言葉だった。

回顧録1:ヤオハン破綻で迎えた転機回顧録2:ヤオハン、転落の坂道回顧録3:お袋と交わした最後の言葉 母の死
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