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回顧録4 身を助けた祖母の言葉

お袋が亡くなって、このままじゃだめだと思った。
 親父を先に亡くした母親は、一家を支えないといけないから外で働いて子供の世話などできなかった。
 私は預けられた祖母と一緒だった。祖母は喧嘩早い私の将来を案じ「やくざにだけは、なってはいかん」と、いつも口をすっぱくして諭した。
 そうした私も中学校を卒業して、農業高校に入った。
 当時、宮古島には生産高校と農業高校があった。
 宮古島の家というのは高床式で縁側が高いし、床下に入ることができた。たまたま床下に入って遊んでいた。すると上で、祖母たちが話していた。
 「常坊、高校に入ったけど、学費もあるからなー」
 すると祖母は「そんなもの、土地でも売って払えばいい」と言っていた。
 それを聞いて、迷惑かけるなと思って後日、私は祖母たちに「高校には行かない。学校は嫌いだから行かない」と告げた。
 そんな折、たまたま集団就職の募集があった。高校の夜学にも通いながら稼げるというものだ。それに迷わず応募した。
 見送ってくれた祖母の言葉は「お前は気が短いから、やくざに絡まれて命を落とすこともあるかもしれないが、やくざにだけは絶対なるな」というものだった。
 それで祖母に「やくざにはならないから」と誓って出てきた。
 その誓いがなかったら、そうした世界に足を踏み入れた可能性があった。祖母の言葉は、私を誤った道へ転落するのを防いでくれた最大の宝物だ。

 <<集団就職で本土へ>>
 沖縄から本土への集団就職だから、本当はグループで行くんだけど、たまたま私の場合は1人だけだった。臨時雇用の枠は1人だけだった。
 それで那覇から神戸港に入った。当時はまだ、米軍統治下の沖縄だったから本土へはパスポートが必要だった。沖縄から出るのにイミグレの出国スタンプが必要だし、神戸港にも入国のイミグレを通過しないといけなかった。
 神戸港には迎えの人がいた。その人は神戸駅まで案内してくれて、そこで切符を買いに行った。
 それで「下地、ここから動いたら絶対いかんよ。ここにいろよ」と念を押されたが、変な人がきた。
 「お前、いい仕事あるよ」と言う。
 連れはなかなか帰ってこないし、仕事があるというならこっちでもいいやと思って付いていこうとした。荷物を持って同行しようしたその時に、向こうから連れが帰ってきた。
 「どうした」と言うと、さっきの人はさっといなくなった。
 その時、えらく叱られた。
 「お前、どこに行こうと思ったのか」と言う。
 「いや、付いていこうとした」と答えると「お前、人買いじゃないか。タコ部屋に押し込まれて、ただ働きの奴隷労働が待っているだけだぞ」と言う。
 連れは「日本というのはこんなに怖いところだ」とかブツブツ言いながら、一緒に東京まで私を連れて行った。
 一緒に座るのも、私を2人がけの奥に座らせて、むやみやたらと動けないようにした。それは刑事映画によく出てくる、犯人の護送場面みたいな格好だった。

 <<バイトに明け暮れ、遊びで散財>>

 東京の南千住には宮古島の人が一杯来ていた。
 私にあてがわれた仕事は、注射器を作るガラス細工の職工だった。
 翼ガラスという中小企業だ。まだ存在する。
 自分でガラスを焼いて、出っ張っているところをガスで焼いて作り上げるという作業だった。
 これは簡単にできるものではない職人の作業だ。終業ベルが鳴っても、残業しないといけないのが常だった。それに寮生活だった。
 土日が休日だったが、その週末はバイトに明け暮れた。
 キャバレー帝の駐車場係りとかして稼いだ。そうすれば一日、3000円ぐらい稼げる。掃除夫もしたことがある。朝の8時から翌朝8時まで24時間働いたものだ。体が許す限り働いた。これも12時間で1500円だから、丸一日フルだと3000円にはなった。
 給料は1万円ぐらいで、手取り8000円ぐらいの時のことだ。バイトも結構、いい金になった。
 だから、会社から「お前、どこに行っているのか」とよく言われたものだ。
 夜学というのが条件として付いていたが結局、勤務時間が長くなって行かせてもらえなかった。
 しばらくして自分で自主的に行ったが、それも途中で止めた。近所の夜学に歩いて通い、晩の6時から9時ぐらいまで勉強したが結局、半年ぐらいしか行っていない。元来、勉強は好きではなかった。
 それで何をしていたかというと毎晩、ダンスホールに行っては散財していた。そのための金を稼ぐのに、ひたすら汗を流した。

回顧録1:ヤオハン破綻で迎えた転機回顧録2:ヤオハン、転落の坂道回顧録3:お袋と交わした最後の言葉 母の死
回顧録4:身を助けた祖母の言葉回顧録5:日本経営者同友会 創始者・石原慎太郎氏